『私、アクトレス/特別でない特別な1日』
act.02:特別でない特別な1日
「お疲れ様。瞳子さん、交代の時間よ」 教室の入り口で受付け業務――任意で記帳してもらったり、入場記念の数珠リオを手渡したり――に勤しんでいると、 中から出てきたクラスメイトにそう告げられた。 今日は、リリアン女学園の学園祭。1年椿組は乃梨子さんの案を受けて『他教のそら似』展という世界の宗教の相違 点、類似点研究レポートの展示発表をしていた。内容や出来には自信があったけれど、けっこうお堅いイメージがあった ので、正直どれだけの人が見に来てくれるか不安に思うところもあったが、いざ当日を迎えてみたらそんな杞憂などいず こかへ吹き飛ばすほどの盛況ぶり。特に、父母、教師からの評判が高かった。さすがに満員御礼とまではいかなかった ものの、この出し物でこれだけ人が訪れてくれれば上出来だ。まさに、マリアさま、そして今回はお釈迦さまのご加護と いったところであろう。 「あら、もうそんな時間? じゃあ、お言葉に甘えて休憩させてもらおうかしら。午後になったらまた交代しますね」 笑顔で答えると、座っていたパイプ椅子から立ち上がった。開園からずっと座りっぱなしだったので、腰とおしりがジン ジンする。けっこう忙しかったので、時間的な感覚は麻痺していたものの、肉体的な疲労は麻痺してはくれなかったよう だ。 「うーん」 私は両腕を上にあげて思いっきり伸びをした。 「そんな無理しなくていいわ。午後は演劇部の舞台があるのでしょう?」 「ええ、まあ」 自ら宣伝などはまったくしていなかったのだが、私が演劇部の舞台で若草物語のエイミーを演じることは既にクラス中 に知れ渡っていた。そういえば、リリアンかわら版で『演劇部期待の新星、四姉妹の末っ子で舞台デビュー!!』などと見出 しが躍った学園祭特集号が臨時増刊として発行されたんだっけ。それを読んだクラスメイトやご苦労なことにほかのクラ スの生徒まで本人よりも盛り上がってしまって、応援しているからって。ひっきりなしの激励に、何度笑顔で返礼したこと か。それだけ期待されているのは十分にわかったし、演者としてありがたく思ったけれど、さすがに度の過ぎた期待は ちょっと鬱陶しいというか、肩がこってしまうのもまた事実なのだった。
私は見学者の邪魔にならないように教室に入ると、幕で仕切られている控え室へ入った。 「お疲れ様」 居合わせたクラスメイトと軽く挨拶を交わしつつ、部屋の隅に置いてあった鞄のもとへ。お財布の入ったポーチとクリア ファイルに挟んでおいた1枚のチケットを取り出すと、取り出したチケットをじっと見つめた。演劇部公演・若草物語の公 演鑑賞券。しかも入手困難な最前列の席。あの一件のとき、「絶対に観に行く」と言っていた祐巳さまの笑顔がどうしても 忘れられなくて。気が付いたら必死になって手に入れていたのだ。 (これを渡したら、祐巳さまどんな顔をされるかしら? きっと驚くでしょうね) 考えるだけでこちらまでワクワクしてくる。 (っていうか、苦労して手配したんだから喜んでもらわないと困るのよ) 思わずワクワクしてしまった自分に気が付くと、とたんに赤面。誰が見ていたわけでもないのだけれど、私は周囲を見 回しながら心の中で必死に言い訳の言葉を紡ぐと、足早に教室を後にした。
様々な人々が行き交って賑わう校内は、どこもかしこもお祭りムード一色。美味しそうな食べ物の香り、呼び込みに励 む生徒たちの声、色とりどりの装飾品……。それらを眺めているだけでも不思議なことに気持ちが高揚してくる。 「えーと、確か午前中はお店の番をしているって仰っていたっけ……」 私は小脇に挟んでいた学園祭のパンフレットを開いて、催し物の場所が記された校内の案内図に目を落とした。 「校舎内じゃなくて屋外でやられているのね。第2体育館の方か……」 呟きつつパンフレットを閉じる。そして私は、雑踏と化した廊下を右へ左へ軽やかに人を避けながら、目的地に向かっ て歩き始めるのだった。
第2体育館へ向かう道をしばらく進んでいると、異様な盛り上がりを見せる一角が目に飛び込んできた。 「どうやらあそこみたいね」 体育の授業で使う赤いポールに縄を渡して作り上げられた簡素な空間。でも、その盛況ぶりはみすぼらしい見た目と は正反対。仕切るロープの内外を問わず、多くの人で溢れ返っていた。 2年松組と藤組が合同で出店したフジマツ縁日村。目的地はここだった。 リリアンの生徒はもちろん、多くの来場客で溢れ返った村内の様子を遠巻きに観察していると、浴衣を着た西洋人形 がヨーヨー釣りの屋台でお店番をしていた。驚きのあまり思わず二度見してしまったが、よく見たらそれは浴衣姿の白薔 薇さまだった。涼やかな笑顔は遠目に見ても麗しのご令嬢って感じ。もともと西洋人形を思わせるお顔立ちだったので、 浴衣との相性はあまり良くないと思っていたけれど、なかなかどうしてバッチリ似合っている。となりの焼きもろこし屋で笑 顔を振りまいている、同じく浴衣姿のクラスメイトよりも断然着こなしているって感じ。実家がお寺ということだし、日ごろか ら着物は着慣れているのかもしれない。……白薔薇さまが浴衣姿ということは、あの方も浴衣姿でお店番をしているの だろうか……? 「ともかく、中に入らないと。えーと、受付けは……」 私は縁日村の外周に視線を巡らせた。すると、程なくして入り口は見つかった。 「あ」 ついでに、いや、ついでという言い方には語弊があるけれど、ついでに尋ね人も一緒に見つかった。残念(?)なことに 浴衣ではなく、見慣れたリリアンの制服にハッピを羽織った紅薔薇のつぼみ。祐巳さまだ。 「繁盛してますね」 縁日を楽しむために来たわけではなかったので、祐巳さまをすんなりと見つけ出すことが出来て助かった。私はあらか た人が捌けるのを持ってから、入り口横の受付けで食券の発券業務に勤しんでいた祐巳さまの前まで進んで声をかけ た。 「あ、瞳子ちゃん!?」 驚き顔の紅薔薇のつぼみ。その隣りには、まるでアイドルのようにお客さんへスマイルを振りまいている黄薔薇のつぼ み、島津由乃さまの姿も。私は、一瞬視線が合った由乃さまに軽く会釈だけすると、未だビックリ顔の祐巳さまの方へと 向き直った。まだ驚いてたのかこの人は……。 「そんなに驚かれても困るんですけれど」 「あは。ゴメンゴメン。まさか来てくれるなんて思ってなかったから本気でビックリしちゃったよ」 にへらと締まりなく笑む祐巳さま。まったく、相変わらず呑気な人だ。 「でも、本当に良く来てくれたね」 「時間が空いたのでたまたま来たまでです」 素直に祐巳さまに用事があったと言うのもなんだか気恥ずかしかったので、私はとっさにそう答えてしまった。 「そっか。でも、たまたまでも来てくれてすごく嬉しいよ。ありがとう瞳子ちゃん」 おもむろに私の両手を取って微笑む紅薔薇のつぼみ。予想外の行動に私は思わず赤面してしまった。油断していた。 祐巳さまはこういうことを恥ずかしげもなく出来てしまえる人だった。悪い気はしなかったけれど、やっぱり恥ずかしい。 私は急いで腕を引っ込めると、黄薔薇のつぼみの方をチラリと垣間見た。今の赤面、見られていないよね? 「良かったら、コレ食べていってよ」 私が由乃さまの視線を気にしている間に、祐巳さまは近くにいた金庫番もとい出納係に声をかけて受け取っていた何 かを私の目の前へ差し出してきた。 「何です?」 「フランクフルトの食券。3枚あるから乃梨子ちゃんと可南子ちゃんにも渡してもらえる?」 3枚の食券をまじまじと見つめている私に向かって祐巳さまは「さあ遠慮しなで」と満面笑みで差し出してくる。 「おいくらですか?」 私はお財布を取り出しながら訊ねた。 「いいって。私のオゴリ」 テーブルの上に貼ってあった料金表をチラリと見て、200円のフランクフルト3本分、600円をお財布の中から摘み上げ ようとしたら、祐巳さまにそう言って制されてしまった。 「そうはいきませんよ」 お小遣いには限りがあるので、例え出費が600円と言えども大打撃にはかわりない。だから、正直祐巳さまの申し出は ありがたかったのだけれど、先の舞台復帰劇のこともあるし、これ以上祐巳さまに借りを作るのははばかられた。という より、本当は祐巳さまの無垢な優しさに触れるのに戸惑っていたのかもしれない。隣に黄薔薇のつぼみがいらしたこと も、素直に受け取れない理由の1つだったと思う。 「もう、可愛くないなあ。こういうときはただ『ごちそうさまでした』って言えばいいの」 どことなく先輩ぶって――ぶらなくても先輩なんだけれど――胸を張りつつ仰る祐巳さま。間違いなく先代の紅薔薇さま あたりの受け売りなんだろうなと、なんとなく思えた。 「でも、奢っていただく理由がありませんもの」 「理由? 理由かあ……」 私がそう言うと、祐巳さまは腕組みをして考え込んでしまった。 「劇を手伝ってくれるお礼の気持ち……かな?」 「お礼、ですか」 お礼。今日、演劇部の後に公演を控えている山百合会の出し物、とりかえばや物語へ出演する謝礼の前払い。つまり は出演料ってことか。女優、松平瞳子をキャスティングしたわりには、随分とリーズナブルな出演料ですこと。なんて心の 中で冗談を言いつつひとりほくそえむ私。奢る理由をこじつけるのでしたらば、もう少しそれらしいことを考えた方がいい ですよ。今回、お手伝いをするのは私だけじゃないんですから。そんなことを言いかけたときだった。 「ごちそうになりまーす!!」 「は?」 いきなり周囲に無数の気配を感じたと思ったら、制服姿の男子高校生軍団がテーブルを挟んだ祐巳さまの前へニコニ コ顔で躍り出てきた。その勢いに何事かと眉をひそめていると、集団の中に見知った顔を見つけた。福沢祐麒さん。祐 巳さまの弟さんだ。それでようやく私は集団の正体を知ることが出来た。彼らは花寺学院生徒会のメンバー。会長の祐 麒さんを筆頭に、彼らも山百合会プロデュース公演の協力者たちだ。 「フランクフルト、おでんにおーしるこ〜♪」 などと元気よくコールしながら祐巳さまに迫る花寺軍団。優兄さまが会長だったら、騒ぐ会員たちを一喝してくれるので しょうけれど、現会長の祐麒さんは無責任にも苦笑を浮かべて事態を見守っているだけ。まあ、もともと一喝するような キャラじゃないと思うけれど、仮にもあなたのお姉さんの危機なわけですよ? 「うううぅ」 妙な唸り声を上げる祐巳さま。ほら言わんこっちゃない。彼らだって舞台の協力者。舞台のお礼が理由だったら、当然 彼らにもそれを受け取る権利があるわけだ。 (さあ、祐巳さま、どうします?) まさか「瞳子ちゃんは可愛い後輩だから特別」なんて言っちゃうのかしら? なんて想像しつつ、黙って祐巳さまを観察 していると、しばらくお財布を覗き込みながら難しい顔で考え込んでいたが、やがて観念したように小さく息を吐くと、6人 分のフランクフルト券を発券した。 盛大な歓声を上げて縁日村の中へ突入していく一団の後姿を見送ってから祐巳さまの方へ視線を向けると、力なく肩 を落とされていた。 3人分+6人分=9人分。フランクフルトは1本200円なので、しめて1800円也。 でも、今回は迂闊なことを口走ってしまった祐巳さまの負けですね。そう思ったけれど、さすがに口に出して言うのも可 愛そうだったので、私はそしらぬ顔で話題を変えることにした。 「そういえば、ここに来る前に乃梨子さんとばったり会って、一緒に手芸部の展示を見てきたんです」 公演が始まるまで、とりかえばやの衣装が展示されているから見に行かないかと。最初は断ろうと思ったんだけれど、 時間にも余裕があったし、無下に断る理由もないし。それで私は手芸部の展示を経由してからここへ来たのだった。 一応、乃梨子さんに「白薔薇さまとご一緒するんじゃないの?」と尋ねてみたのだが、白薔薇さまはさっき見た通り縁日 村でお店番中。午後から別の展示を一緒にまわるからいいんだそうだ。まったくもって仲がよろしいことで。 開園からずっと受付け業務に勤しんでいた祐巳さまは、まだどこも見学されていないとか。まあ、どうせ手が空いたら 大好きな祥子さまと校内デートでもするおつもりなんでしょうけれど……。そう思ったら、何故だか胸の奥が、ほんの少し だけチクリと痛んだ気がした。 「私もあとで行ってみようかな。それと、瞳子ちゃんのクラスの展示も見てみたいし」 祐巳さまはいつもの調子で仰った。 「え、私のクラスですか? じゃあ瞳子がご案内しますよ」 気が付いたら、そんなことを口走っていた。自分でもビックリするくらい自然な口調で。舞台の観賞券を渡しに来ただけ だというのに、私は何を余計なことを言っているのだろう。言った自分でも良くわからなかったけれど、何にせよ1度口か らこぼれ出てしまった言葉を、取り下げるわけにはいかない。 「え、本当? お昼過ぎにはお仕事終わるから、それじゃあお願いしちゃおうかな」 案の定、すっかり乗り気な祐巳さま。まあ、案内といっても展示されている教室を一通りまわるだけだろうし、正味20分 くらいの話。お礼にもらったフランクフルト券のお礼と考えればとんとんかな。 「じゃあ、お仕事が終わる頃を見計らってお迎えに……」 伺います、と言おうとしたときだった。祐巳さまは「ちょっと待って」と言い残して黄薔薇のつぼみの方へ行かれてしまっ た。なんだかないがしろにされた様な気持ちになってムッとしながら祐巳さまの姿を目で追っていると、何やら黄薔薇の つぼみに詰め寄っているご様子。何か由々しき事態でも発生したのか? 仕方がなかったので、私は受け付けのテーブ ルから少し外れたポールの脇で祐巳さまが戻ってくるのを待つことにした。 「…………」 2分。まだ来ない。4分。まだ来ない。7分……。さすがにイライラが頂点に達した。もう、最初にお話をしていたのは瞳子 の方なんですよ。何のお話かはしりませんけれど、黄薔薇のつぼみとのお話は瞳子とのお話よりも優先されてしまうんで すか? 思わず地団駄を踏みそうになったけれど、辛うじて踏みとどまった。若草物語の公演前に、ヒロインの1人である自分 がみっともない姿を見せるわけにはいかない。 なんだか居たたまれない気持ちになってさっきまで祐巳さまがいた受付けを見やると、テーブルの隅に先ほどのチケッ トが3枚キープされていた。私はおもむろに手を伸ばすとチケットを摘み上げ、祐巳さまのかわりに受付け業務について いた出納係りさんへ、 「祐巳さまお取り込み中のようなので失礼します。フランクフルトごちそうさまでしたとお伝えいただけますか」 と言付けをお願いして、賑わう縁日村に背を向けた。最後にチラリと祐巳さまの姿を確認すると、未だ黄薔薇のつぼみ とじゃれ合っていらっしゃる。それで、渡すべき観賞券のことも私の頭から完全に吹き飛んでいってしまった。 無意識に大またになった足取りで、ズンズンと校舎に向かって歩む私の顔は、きっと不機嫌200パーセント。なかなか お目にかかれないほどのふくれっ面だったと思う。 混雑した通路で、にこやかに会話をしながらやって来た名も知らぬ姉妹とすれ違った。刹那、無性にイライラしていた 私の胸が、また小さくチクリと痛んだ。
思いっきり握っていたので、せっかくもらったフランクフルト券がしわくちゃになってしまった。それでも失効することはな いだろうけれど、展示を見てまわっていた乃梨子さんへ券を手渡すとき、心なしか怪訝な顔をされてしまった。あとは、可 南子さんへ手渡せば任務完了なんだけれど、乃梨子さんみたいに都合よく廊下でバッタリというわけにはいかないのが 世の常。若草物語の準備は部の裏方さんたちがやってくれることになっていたけれど、それでも多少は早めに楽屋兼更 衣室へ入らなければならない。それに。それに、もしかしたらさっきのお話を祐巳さまがちゃんと聞いていてくださった可 能性もあるわけで。それを確かめるためにも、正午過ぎに縁日村を再訪しないと。展示の案内の約束もそうだけれど、 かっとなってしまったせいで祐巳さまを尋ねた当初の目的も果たせていないわけだし。思わず、自分の前向き思考に苦 笑が洩れる。 私は、抱えていたポーチをギュッと抱きしめた。
「え、祐巳さん? ちょっと前に交代したわよ」 フジマツ縁日村の受付けには、見知らぬ上級生がいて、私が尋ねるとそう教えてくれた。 「そうですか。ありがとうございます」 やっぱり話を最後まで聞いてくれてはいなかったか。私は自分を嘲り笑いたい気分になった。まったく、何を期待してい たのだろう。これではまるで、祐巳さまがいらして、ご一緒するのを楽しみにしていたみたいじゃないか。まったく私らしく ない。 「あの、この辺におでんはあります?」 もうやけくそになったので、祐巳さま宛の鑑賞券を受付けのクラスメイトに託してしまおうかとも思ったが、ちょうどやっ て来た女性のお客さんが受付けでおでんのことを尋ねていたのでタイミングを逸してしまった。 「はあ」 何気なく村内を見ると、見知ったクラスメイトの集団を発見した。 「せっかくだし、食べていこうかしら」 祐巳さまにもらったフランクフルト券のことを思い出す。祐巳さまのことでちょっとイライラしていたけれど券には罪はな い。私は折りたたんでお財布に入れておいた食券を1枚引き出して、クラスメイトの輪の中に入っていった。多少の気晴 らしになればいいかな、なんて思いつつ。
1時5分。演劇部の公演は1時30分からだから、そろそろ楽屋入りしなければならない。だというのに、私は未だ目的も なく校内をウロウロと歩き回っていた。各クラスの展示を見ても上の空で、無意識のうちに紅薔薇のつぼみの姿を探し求 めている。 そんな私の思いが神様に届いたのか。楽屋入りの時間間際になったので体育館へ向かうべく廊下を進んでいると、人 波の先に祐巳さまの姿を見つけることが出来た。 「祐巳さま!」 見つけられた嬉しさと、正体不明な別の感情がごちゃごちゃになってこみ上げて来て、私は思わず走りだした。やっと 見つけた。チケットも渡せる。それに。それに? でも次の瞬間、私の足は一歩踏み出しただけでピタリと止まった。祐巳さまの隣りに祥子さまがいらっしゃったのだ。 やっぱり、空き時間にデートしてたんだ。それは自分の予想通りで今更驚くことでもなかったのだけれど、おふたりの仲 むつまじい姿を遠巻きに眺めていたら急にやるせなくなってしまった。 「また私はのけ者か……」 再び視線を向けると、祐巳さまもこちらに気が付いたようで、大きく手を振っていた。 「っ!」 それを見たら急に胸が気持ち悪くなってしまった。これ以上祐巳さまを見ていたらどうにかしてしまいそうだ。私は不自 然に顔をそむけると、足早にその場を立ち去った。 当然、祐巳さまたちの背後に可南子さんがいたことなんかに気がつけるわけもなく。食券を渡さなくちゃなんてことも完 全に頭にはなかった。
演劇部の公演が間もなく始まる。客席は予想以上の大入りで、残る座席は後方の3〜4列ほどになっていた。 衣装に着替えて最後の台詞チェックもバッチリ。あとは本番に臨むだけ。私は、あわただしい舞台裏を抜け、袖からチ ラリと客席を垣間見た。見知った顔やクラスメイトの顔が何人も確認出来た。だが、開始5分前だというのに、楽しみと 言ってくれた張本人の姿を見つけることは出来なかった。次いで部のOGや取材の新聞部のために用意された最前列の 席へ目を向ける。センターやや左よりの座席だけが、ぽつんと空席のまま残っていた。 「もう。楽しみだって仰っていたから、絶対観に行くって仰っていたから、特等席で瞳子の晴れ舞台をご覧にいれようと 思っていたのにっ!!」 右手には、1枚の観賞券が握られていた。祐巳さまのために事前に手回ししておいた最前列のプラチナチケット。もし、 会場で見かけることが出来たら、さっきまでのことはひとまず忘れてこの券を渡そう。私はそう自分に言い聞かせて最後 のチャンスに賭けていたのだけれど、結局祐巳さまは開演のブザーが鳴っても姿を現さなかった。
楽屋に下がった私は、握っていた券を無造作に鞄へ突っ込んだ。せっかくのプランは台無しで、気分も最悪。心の中 は濃い霧がかかったようにモヤモヤしている。でも、それを舞台に持ち込むわけにはいかない。幕が上がれば私は女 優、松平瞳子なのだから。私は両手で頬を叩いた。そして、目を閉じて深く深呼吸。すると、胸の中でエイミーへとスイッ チが切り替わる音がした。もう心の雑音は聞こえてこない。私は胸を張ると、満員の観客が見守っている舞台へと向かった。 第2幕が終わって袖に捌ける瞬間、何気なく客席を見たら、後ろから3列目の席に手を叩いている祐巳さまの姿があっ た。 「ったく、遅いんですよ」 吐き捨てるように言った私の胸が大きくドクンと跳ね上がった。その一瞬だけ私はエイミーから松平瞳子へ戻ってい た。
舞台は大成功だった。 オールスタンディングで巻き起こる歓声。鳴り止まない拍手。すべてが心地良く胸に響き渡ってくる。カーテンコールを 終えて楽屋に戻っても、しばらく出演者の興奮が冷めることはなかった。まさに、舞台に立つ者のみが味わうことを許さ れた演者の醍醐味というやつだ。 私も、大役を果たした安心感、充実感に浸りながら、クタクタになった身体をパイプ椅子の背もたれに預けていた。タオ ルで汗を拭い、用意してくれたミネラルウォーターを口にしてようやく人心地。とたん疲労感が襲ってきたけれど、それす らも今は心地いい。 「お疲れ様です」 すがすがしい気持ちで舞台の余韻に浸りつつ、2口目のミネラルウォーターを口にしていると、ノックに次いでふたりの お客さんが楽屋を訪ねてきた。祥子さまと祐巳さまだった。もう、せっかく最高の気分だったというのに、また嫌なこと思 い出しちゃうじゃないですか。私は急に重くなった身体を無理矢理動かしてふたりに背を向けた。願わくば話しかけない でくれと心の中で繰り返し念じながら。だけど。 「良かったよ瞳子ちゃん」 そんな私の必死な思いは神様には届かなかったようだ。心中穏やかではない私の背後に歩み寄ると、穏やかでない 原因であるところの祐巳さまが声をかけてきた。 「遅刻して来たくせに」 強引に正面へ回り込んできたので、私は思いっきりそっぽを向いた。観に来てくれて嬉しかった。それでいいじゃない かと思う一方、それだけじゃ納得出来ない自分も心の中で頭をもたげていたのだ。 「ゴメンゴメン。でも、瞳子ちゃんが最初の台詞を言う前には来てたってば」 悪びれた様子もなく、にへらと笑む祐巳さま。もう、そういう問題じゃないんですってば! 「着替えるんで、そこをどいてください」 今更現れるなんてヒドイです。この半日、私がどんな思いでいたか、祐巳さまはご存知なんですか? 言いたいことは 山ほどあったけれど、言い出したら歯止めがきかなくなりそうだったので、とりあえず祐巳さまには早々にご退場願いた かった。 「ねえ、着替える時間がもったいないし、このまま出かけない?」 「は? 何を仰っているんです?」 気が気じゃないところへ、更に謎の言葉。意味がわからずに聞き返すと、祐巳さまは返事のかわりに私の手を取った。 「約束したじゃない。一緒に1年椿組の展示を案内してくれるって」 思わず頭の中が真っ白になった。 「今からですか?」 1時間後にはとりかえばや物語の本番があるというのに、何を言っているんだこの人は? 「だから、今しか時間がないんだって。ほら行こ?」 「ちょっ!」 私の同意を待たずに祐巳さまは腕を引いて、私を連れ出そうとした。 「祥子お姉さまぁ」 横に立っていらした祥子さまへ必死に手を伸ばして助けを請うた。確かに約束はしましたけれど、公演と公演の間の短 い時間に、しかも舞台衣装のままでなんて! それに、私の心の整理は、まだ全然ついていないんですよ? 「楽しんでらっしゃい。でも、楽屋入りが25分遅れたら許さなくてよ」 「はーい」 「それはないですよ祥子お姉さま! それに、祐巳さまもはーいじゃなくてーーー!」
渡り廊下に出ると、さすがに人の目もあるので、私は抗うのをやめた。ただでさえ目立つ格好をしているというのに、こ れ以上注目を集めるような真似なんて出来るもんですか。 途中で楽屋へ向かう祐麒さん、白薔薇姉妹と遭遇したけれど、私は誰とも目を合わせることなく校舎へと入った。 舞台で慣れているせいか、いつしか人の目も気にならなくなっており、私は手を繋いだまま祐巳さまと歩調を合わせて1 年椿組を目指していた。 「今更約束だなんて……ばっかじゃない」 胸の中はイラついていたけれど、私の手は祐巳さまの手をギュッと強く握り返していた。
「へー、すごく本格的に研究したんだねー」 一緒に1年椿組の展示を見てまわりながら、いちいち祐巳さまは感嘆の声を上げた。特に、乃梨子さん、可南子さんの 手がけた展示物の前では「すごいすごい」と手を叩いて大げさに思えるほどの感心っぷり。そんな姿を隣りでずっと眺め ていたので、私は祐巳さまに自分の手がけた展示物を教えなかった。自信がなかったわけではなく、少しは見てもらいた い気持ちもあったのだけれど、作成した私が見ている目の前で乃梨子さんの時みたいに騒がれるのは正直勘弁願いた い。祐巳さまは、しつこく教えて教えてと言っていたけれど、私も負けじと終始拒否。そうしたら仕舞いに祐巳さまは「瞳子 ちゃんのケチんぼー」なんて口を尖らせていた。
〜エピローグ〜
「もう、どちらが先輩でどちらが後輩なのかわかりませんでしたよ」 学園祭の代休が明けた火曜日。 下校前に起きた祥子さま失踪事件ですっかり忘れてしまっていたけれど、帰宅して自室の机に置かれていた学園祭の パンフレットを見たら一昨日の記憶が蘇ってきた。リリアン女学園ではじめて体験した学園祭。本当に大変だった。展示 の準備、本格的な舞台デビュー、山百合会プロデュース公演のお手伝い、そして、祐巳さまに振り回されっぱなしだった 1日。特に祐巳さまには怒ったりイライラしたり笑ったり呆れたりさせられっぱなしで、気が休まる暇もなかった。おかげ で心身の疲労は想像以上で、昨日の代休は半分寝て過ごしてしまった。 でも、とっておきかは置いておいて、私にとって印象深い学園祭になったのは確か。不機嫌な口調とは裏腹に笑みを 湛えた私は、誰かさんのおかげでてんやわんやだった学園祭に思いを馳せるのだった。
着替えを終え、脱いだ制服をクローゼットへ仕舞おうとしたとき、制服のポケットに入っていた何かがかさばって手に 当った。 「あ、そういえば」 ポケットから出てきたのは1枚の写真だった。椿組の受付けで祐巳さまと私が数珠リオを選んでいるところを写真部の 蔦子さまが隠し撮りされたらしく、今日帰るときに手渡してくれたんだった。私の作った数珠リオを掲げてニッコリ顔の祐 巳さまと、ふて腐れてそっぽを向いている私の姿が写ったなんとも奇妙なツーショット写真。蔦子さまは「祐巳さんと一緒 だと、あなたはすごくいい顔をするわね」なんて言っていたけれど、この私のどこがいい顔だっていうのかしら。油断しま くって、まるっきり素の松平瞳子じゃない。 写真をいくら眺めていても答えは出そうもなかったので、私は考えるのを諦め、家族や祥子さまの写真が貼られている コルクボードにその写真も貼り付けた。その横には、昨日貼り付けた渡せず仕舞いの鑑賞券。その表面には太字のマ ジックペンで殴り書きされた『ばか!!』という文字が踊っていた。 「ばか!!だって」 写真の中の自分のおでこを指で弾きつつ、私は久しぶりに声を出して笑った。
もう、何はともあれ。Act.01に引き続いて瞳子ちゃん大好きーな気持ちを目一杯突っ込んで書き上げたお話です。 戸惑いつつ、少しずつ祐巳に惹かれはじめていく瞳子ちゃんの姿を描きたかったのですけれど、いかがだったでしょ う。 一応隠れテーマは『スールの契りを交わすまでの尖がりつつも中身はナイーブな瞳子の葛藤』って感じです。 今回ちょっと辛い思いをさせてしまったので、スールを巡る瞳子騒動が解決して幸せになった姿もいずれ書いてあげな きゃですね。もう、そのときは目一杯幸せに描いちゃうんだから(笑)。 ちなみに、個人的に今作は『それはとても些細な秋の実りのような』 から続く瞳子ちゃん3部作なんて呼び名をつけて、ひとりで勝手に喜んでいたわけなんですが、はい、関係ありませんね(笑)。
今回はいつにも増して人物描写が偏りまくっていたと思います。加えて、各所に自己解釈による描写がいくつも出てき ています。ご容赦ください。。。
それと。タイトルをちょっと変えました。紛らわしくてごめんなさい。
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