『ふたりの夏を忘れない』
〜後編〜
「そっか。妹が出来たんだ。乃梨子ちゃんっていうの?」 互いのぬくもりを感じながら、私たちは色々な話をした。逢えなかった、いや、逢わなかった日々の、時間の話を。話は どれも他愛もないものだったけれど、白薔薇 藤堂志摩子の話を、前白薔薇さまであるお姉さまが傍らで聞いてくださって いると思うと、気恥ずかしく思う反面、自分でも驚くくらい気持ちが高揚した。 「はい。仏像観賞が趣味というちょっと風変わりな面もあるのですけれど、とてもしっかりした子です」 京都へ秘仏を見に行った帰りに大雪に遭って電車が運休。志望校の入試を逃して、やむ得ずリリアンにやって来た乃 梨子。そんな彼女の受験エピソードを話していると、思わず自分の頬も緩んでしまった。 「仏像が好きなの? こりゃまた、山百合会史上でも稀に見ぬ逸材だね」 私の目の前で、お姉さまは楽しそうに微笑んだ。確かに、カトリック系の学園に通う仏像愛好家はちょっと変わっている かもしれない。 そういう意味では私も異端。そのことで、かつては思い詰めていたっけ。 「でも、志摩子が元気そうで安心した」 だから、お姉さまが卒業されるとき、逢えない寂しさ、白薔薇としての重責も手伝って、心細いと抱きついてお姉さまを 困らせてしまったのだった。 「志摩子が強くなれたの、少なからず乃梨子ちゃんの存在も影響しているのかもね」 そう言って微笑むお姉さま。確かに、乃梨子は自分の弱い部分を補ってくれている。自分を支え、共に歩んでくれてい る。自分にとって出来すぎた妹だった。乃梨子の顔を思い浮かべながらそんなことを考えていたら、私はちょっと意地悪 な質問がしたくなった。 「お姉さま、乃梨子にヤキモチ焼いてしまいますか?」 まっすぐお姉さまの瞳を覗き込む。すると、 「何? ヤキモチ焼いて欲しいの?」 逆に意地悪な返しをされてしまった。 ヤキモチを焼かれたい? 正直、こんな返しをされるとは思ってもいなかったので、戸惑いながらも真面目に考え込ん でしまう。私は、一体どうされたいのだろう……。刹那。 「えっ?」 何かが頬に触れる感触がした。とても柔らかいその感触は……。 「お、お姉さま!?」 それは口づけ。一瞬の隙に顔を近づけると、お姉さまは私の頬に接吻したのだ。現実に理解が追いつくのに何秒か かったろう。いや、そんなことは問題ではない。今、私の顔は真っ赤に染まっているはずだ。頭の中まですっかり茹で上 がってしまって、もう訳がわからない。接吻の感触が残る頬をそっと手で押さえながら、私はキスした張本人を呆然と見 つめ返した。 「ヤキモチなんて焼かないよ。だって、志摩子が私のこと大好きなの知っているもの」
どきん。
自信に満ちた顔でお姉さまはそう断言された。そして、また枕の腕で頭を撫でてくれた。 在学中はお互いの存在こそが重要で支えだった。周りからは放任姉妹とかプラトニックだとかいろいろと言われていた けれど、物理的な距離とは違って、心の距離、絆はしっかりと結ばれていた。お互いが絶対不可侵の闇を持つ似たもの 姉妹。だからこそ、互いが互いを理解していることが何よりも強固な絆だと信じていた。だが、敬虔なクリスチャン以前に 私もか弱い人間であることにかわりはない。時には最愛の人との確たる絆、繋がっている証が欲しく思えたときもなかっ たわけではない。 故に今、お姉さまに言われた言葉は、胸に大きな衝撃となって押し寄せてきた。 「そんな言い方、ズルイです」 私は、もはや赤面した顔を隠すことなく、人生で初めて口を尖らすと、拗ねた子供のように言った。 「ズルくないよ。だって、私も志摩子のこと大好きだって、あなたも知っているでしょう?」 何の躊躇もなく言ってのけると、今度は私の瞼に口づけをした。だけど、お姉さまの発した言葉の意味が衝撃的すぎ て、口づけの感触を自覚する余裕はなかった。 (お姉さまも私を好きだった? 今、お姉さまはそう仰ったの?) 瞬間、私は全身の汗が一気に引いていった気がした。
「乃梨子が妹になってくれて、私はリリアン女学園に自分の居場所を見つけることが出来ました」 お姉さまは黙って聞いていた。 「もう、以前のような不安に駆られて動けなくなることもなくなりました。でも……」 お姉さまを見つめながら静かに続ける。 「お姉さまが学園からいなくなられたことで心に湧いた孤独感、寂しさだけは、乃梨子が傍にいてくれても、いつまでたっ ても拭えないんです。それどころか想いは日々募る一方。自分でもどうしようもないくらい切なくて……」 「志摩子……」 「私、お姉さまのことが好きです。それは、お姉さまがお姉さまだからではなく、お姉さまが佐藤聖さまだから……」 お姉さまの腕が、無言で私を抱きしめてきた。私もしがみつくように抱きついた。伝わってくるぬくもりに言いようのない 安心感を覚えた。 そこでようやく気がついた。私はずっとお姉さまに甘えていたのだ。離れていても味方であり続けてくれていると思えた から、逢わなくても信じることが出来たから、ひとり残されて寂しさに苛まれたときでも頑張ってこられたのだ。 私はこんなにまでもこの人に依存していたのかと改めて痛感した。そして、そんな自分を好きと言ってくれたお姉さまの 言葉が嬉しくてたまらなくなった。 「お姉さま」 私は潤んだ瞳で、訴えるように呟いた。 「ん?」 穏やかに微笑んで、お姉さまの手が頬を優しく撫でてくれた。刹那、私の中で何かが音を立てて壊れた気がした。言い 訳ばかりして自分を偽ってきた過去との決別。今こそ扉を押し開くときだと思った。 「お姉さま。本当に私のことを、志摩子のことを好きだと思ってくださるのなら、その証をください」 懸命に絞り出した一言。だったが、最後まで言い切ることは出来なかった。証をくださいの「く」の形に唇がなったとき に、お姉さまが唇を重ねてきたのだ。口づけと呼ぶには短くて、ほんの一瞬の出来事だったが、私の頭は思考を止め、 ボーっとしてしまった。 「昔の志摩子だったら、こんな大胆なお願いしなかった。逢わなかったのはほんの数ヶ月だったけれど、らしくないという か、変わったというか」 私の頬を嬉しそうに撫でながらお姉さまは仰ったが、「らしくない」というお姉さまの言葉が胸に突き刺さった。自分でも らしくないという自覚はあったが、らしくない、変わった自分に自信が持てていたわけではなかったからだ。 「本当に……私らしく……ないですね」 明らかにトーンの落ちた声で、私は無理した笑顔で言った。 「うん、らしくないね」 今の自分を否定されたような気持ちになって、無意識の涙が頬を伝った。気持ちは張りっぱなしでとても泣ける気分で はなかったのだけれど、心は思っていたよりデリケートに出来ているみたいだ。 「でも、良いと思うよ」 「え?」 驚きで丸くなった瞳でお姉さまを見つめた。 「あの頃は、お互いの存在こそが全てで、お互いに必要とされていることが重要だった。お互いの闇に触れないことが理 解だと思って絶対不可侵の距離を保っていた」 「はい」 「それが私たち姉妹だって思っていたし、今もそれは間違っていたと思ってはいない。でも、それって、自分の弱さに背を 向けるための体のいい口実に過ぎなかったのかもしれない」 「私も、余計な言葉は交わさなくても、精神的な部分ではしっかりとした絆で結ばれていると思っていました。それは今も 疑ってはいません。でも、ずっと見える証、祥子さまと祐巳さん、令さまや由乃さんのような正面からぶつかり合うスール に焦がれていたのかもしれません」 お姉さまは、寝そべっていた上体を起こした。 「志摩子は、私と離れて強くなった。乃梨子ちゃんと出会ってもっと強くなった。天から使わされた天使が、乃梨子ちゃん が束縛されていた志摩子を枷から解き放して、大空に羽ばたかせてくれたのかな。今の志摩子はとっても眩しい」 「乃梨子が私の……。でも、私はお姉さまのことが……」 言いかけた唇に、人差し指が押し当てられた。 「わかっているよ。わかっているから私たちは再会したんだと思う。あるべき姿を取り戻した志摩子と再びめぐり逢うため にね」 優しく頬を伝う涙を拭ってくれた。私は、お姉さまのその手をしっかりと握り締めて、起き上がった。 嬉しかった。その言葉が。私は、ダっとお姉さまの胸へ抱きついた。力強く抱きとめてくれているぬくもり。今、確かに最 愛の人の腕の中にいる。私だけを見つめてくれている。そう思った瞬間、潤みっぱなしの瞳から、また大粒の涙がこぼ れ落ちた。ようやく、最愛の人の隣りに立てた気がした。 (隣り……?) だが。その言葉を口にした瞬間、快晴だった私の心は一気に曇天。厚い雲が如く途方もない暗い影が心を侵食してい き、私の喜びをみるみる飲み込んでいった。ゆっくりお姉さまから腕を放し、静かにその身体を押し返す。 「どうしたの?」 私の突然の行動に、怪訝な表情のお姉さま。 「……ごめんなさい、お姉さま……」 「ん?」 解せないという顔つきで見つめるお姉さまを見つめ返しながら、私は無言で大粒の涙を拭うことなく流し続けた。 「私、お姉さまのことが誰よりも大好きです。大好きだから、何よりも大切だから……」 「だから?」 「お姉さまの心にいらっしゃる栞さま。私は栞さまにはなれません……」 暗い影の正体は、お姉さまの心に棲む久保栞さまの存在だった。かつて、お姉さまが好意を寄せていらしたお方。事 の真相までは聞き及んではいなかったが、おそらく、今もお姉さまの心には栞さまがしっかりと息づいているはずであ る。最愛の人として。 大好きな気持ちには嘘も偽りもなかった。お姉さまの言われた「好き」という言葉も疑ってはいない。けれど栞さまのこ とを考えると、もう一歩も前進出来そうになかった。 「バカね」 まるで子供のように、手の甲で涙を拭う。絶望的な気持ちでしゃくりあげていると、涙でぼやけた視界の先に、優しく微 笑むお姉さまの姿が見えた。 「確かに栞はまだ私の心にいるし、これからもずっと消えることはないと思うわ。私にとって特別な人だから。でも、あの 日栞が選んだ道を否定出来ないから、彼女が歩み始めた人生を、決意を踏みにじるような真似はしたくないから、私は 私に翼をくれた栞に応えるためにも、強く凛々しく生きなくちゃいけないと思うの」 私ではなく、どこか遠くを見つめるお姉さまの瞳。特別という言葉に気持ちが沈みかけた。だが、 「それに、私は栞の影を投影させるためにあなたを妹に選んだんじゃない。私がスールに選んだのは志摩子。あなたが 藤堂志摩子だったから、志摩子が志摩子として私の空っぽだった心を満たしてくれたから私はあなたをスールにしたの よ」 次の瞬間に向けられた瞳の真ん中には、確かに私の姿が映っていた。 「お姉さま」 「だから、栞になれないなんて悲しいこと言わないで。私は、私のことを大好きだって言ってくれる志摩子のことが大好き なんだから」 そう言うと、そっと唇を重ねた。閉じられた瞳から、とめどなく涙が溢れてくる。一瞬でも、自分と栞さまを比べてしまった ことを深く悔悟した。一方で、自分がお姉さまにどれだけ想われていたのかがはっきりとわかって、私の胸は嬉しさで打 ち震えた。もはや感情を抑制するのは出来そうになかった。 「私も、私もお姉さまのことが大好きです」 今度は、自ら唇を重ねに行った。お互いを抱きしめあい、交わしたのは長く濃厚な大人の接吻。絡まった舌の感触に は少し戸惑ったけれど、愛する人と芯から繋がれた気がして、とても気持ちが良かった。 「お姉さま、志摩子を愛してください……」 ボーとしてしまって頭では、もはや冷静な思考もままならなかったが、もはや理屈ではないと思えた。上気してとろんとし た表情で私は素直な気持ちを口にした。 「志摩子はオマセさんだ」 そう言って、ニッと笑みをこぼすと、お姉さまは押し倒した私の上へ覆いかぶさってきた。 「でも。そんな志摩子も好き」 手の指が絡まった両手を床に押し付けると、お姉さまはゆっくりと顔を近づけてくる。その間、ほんの数秒。密着したお 姉さまの胸から心臓の鼓動が伝わってきた。とっても早い鼓動のリズム。何だ、お姉さまも緊張されているんだ。なんて 思ったら、へんに強張っていた全身の力がスッと抜けていった。 「志摩子――」 「お姉さま――」 軽く唇を重ねたあと、お姉さまは私の耳を軽く噛んだ。 「こわい?」 「大丈夫です」 身体をビクつかせた私を安心させるように、優しい笑顔で顔を覗き込んでくるお姉さま。私が大丈夫と応えると、目を細 めて前髪をかき上げた額に口づけ。そして、私の首筋にそっと唇を這わせた。 「んっ」 思わず洩れる吐息。大好きな人とのはじめての経験。でも、こわくはなかった。確たる絆を確かめることが出来たか ら。心の奥底でずっと求めていた瞬間だったから。何より、ずっと想い続けていた最愛の人と踏み出した新たな一歩だっ たから。
「お姉さま」 「ん?」 「これからもお姉さまでいてくださいね」 「志摩子の甘えん坊さん」 「駄目ですか?」 「こら、そんな顔しないの」
そして私は、最愛の人とこの日何度目かの口づけを交わす。 ちょっぴり甘い夏の味がした。 それがスイカの味だったかなんて、どうでも良かった。
〜エピローグ〜
リリアン女学園前のバス停留所で、ベンチに座ってバスを待っていると、隣りに座る祐巳さん――学園で会った景さん と大学舎のカフェで話し込んでいたらしく、結局、景さんと一緒に90分遅れでやって来た――が怪訝な顔つきで私の顔を チラチラと見ていた。 「何?」 「あ、いや、何かすごくイイ顔しているなーって思って」 そう言うと、祐巳さんはにへらとしまりのない顔で笑った。彼女が時折見せるこういう何気ない表情、自然ですごくキュ ートよね、なんて思っていたら、 「何かイイコトでもあったの?」 探るように興味深々な視線で問いかけてきた。特に意識はしていなかったのだけれど、私は一体どんな表情をしてい たのだろう。 「弓子さんが美味しいモノご馳走してくれた? それとも……」 思わず、両手で頬を押さえながら答えられずにいると、それが図星と判断したらしい。祐巳さんは、いろいろと想像を膨 らませて矢継ぎ早に尋ねてきた。 「うーん、……もしかして、ワンピースがTシャツとジーンズ姿にかわってるのと関係ある?」 あ、掠った。私は、帰宅した景さんに借りた服を見ながら思わず赤面。汗にまみれたワンピースの入ったバッグを ギュッと抱きしめた。 「秘密よ。あ、バスが来たわ」 口を尖らす祐巳さんを笑みでかわしつつ、私はベンチから腰を上げた。粘られて仮に当てられるのも嫌だったし、これ 以上続けたら今度はどんな表情を晒してしまうのかちょっと心配だったから。
停車したバスのステップに足を掛けながら空を見やる。 夕闇が迫るマジックアワー。太陽は地平の彼方へと姿を消し、世界が金色に輝く黄昏時。蜩の声も日中とは違った趣 があった。
暑い夏のとある一日。それは、とても大切な、私とお姉さまの記念日となった。 誰にも言えないふたりだけの秘密。 お姉さまと過ごしたこの夏の出来事を私は一生忘れない。 とても大切なふたりの夏物語を。
後編、いかがだったでしょうか。 ふたりの秘めた思いを曝け出しつつ、愛し合う姿を描けたらいいなーということで挑戦してみたのですが。。。うーん、理解不足と言いますか実力不足といいますか、少々まとまりのない話になってしまいました。しっかり描きたい気持ちは十分にあったんですけれど、今はこれが限界だったみたいです。 それと、ラブシーンの描写って難しいですね。初めて書いてみたんですけれど、書いていて赤面しっぱなし(汗)。もうちょっと濃厚な描写をしたかったんですけれど、恥ずかしくってあれ以上の描写は出来ませんでした。 結果的に年齢制限はなくても良かったかもしれませんね。
最後までご覧いただいてありがとうございました。よろしければ感想をお聞かせください。
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