『believe』

 

 あれは私、黒須ひかりが小学6年生のとき。目の手術を明日に控えて病室のベッドでナーバスになっているときのこと

だ。

 瞼を冷やす氷嚢の冷たさが何だか孤独感を加速させているようで、それが理由かもわからず怖くて、悲しくて。とにか

く、消灯されてしばらく経っても眠りに落ちる気配などまるでなかった。

 そんな時、孤独の淵に立っていた私に声をかけてくれた人がいた。

 キョウコさんと名乗ったその人は、私よりもちょっぴり年上で――見えなかったのであくまでも想像だけれど――、自身

も虫垂炎の手術を明日に控えているらしかった。それなのに、きっと私みたいに恐怖と戦っているはずなのに、それをお

くびにも出すことなく恐怖に取り込まれてしまっていた私を、明るくて柔らかな口調で元気付けてくれたのだ。

 

「私、キョウコさんの妹になりたい」

 

 話してくれたリリアン女学園の話、スール制度の話はとても素敵で。不安に駆られていた私の心を励ましてくれた。

 そして、手術当日。

 キョウコさんと交わしたスールの約束を胸に抱きしめて手術へ臨んだおかげで、昨晩まで私を支配していた恐怖感は

すっかり薄れていた。手術はもちろん大成功。この喜びと感謝の気持ちを私は一刻も早くキョウコさんに伝えたかった。

 でも……。

 

「キョウコさんってどなた?」

 

 いるはずのキョウコさんは、いるべきベッドにいなかった。一足先に退院したわけでも病室を移ったわけでもない。光を

取り戻した両の眼で確かめたが、キョウコさんがいるべき場所はもぬけの殻。真新しいシーツがかけられた無人のベッド

だった。

 まるで、狐にでもつままれたかのような気分。あれは、不安だったあの晩に神様が使わしてくださった天使だったのだ

ろうか。無事に手術を成功させた私の姿を見届けて、天へ帰ってしまったのだろうか。いや、そんなはずはない。眼に氷

嚢を乗せていたので直接見ることは出来なかったけれど、私はあのとき感じた安心感、キョウコさんの存在感をどうして

も夢や幻の一言で片付けることが出来なかった。

 

 退院すると、私は自分でも信じられない程の集中力を発揮して勉強に没頭。見事中学受験に勝利し、キョウコさんと約

束したリリアン女学園への入学を果たした。ここに来れば、約束の地に立てばきっとあの人に逢えるはず。そんな希望

を胸に抱きしめて。

 

「キョウコさんとスールになるんだから」

 

 そして、変わらぬ想いを抱きしめたまま5年の歳月が流れ、気がつくと私は高校2年生になっていた。

 

 12月のある日。何故か早起きしてしまった私はいつもより1時間も早い電車に乗って登校。白い息を吐きつつ並木道を

進み、マリア様に手を合わせると、静寂に包まれた校舎へと入っていった。

 教室へ向かう廊下をひとりでとぼとぼと歩いて行く。いつもは人の行き交っている廊下には、今、私以外誰もいない。い

つもと変わらない見慣れた風景のはずなのに、心なしか寂しく感じるのは何故だろう。寒いのは季節のせいだけではな

い気がした。

 「そういえば、今日子さんっていつ退院なんだろう」などと考えながら階段をのぼって2階へ差し掛かったときだった。

「ひかりちゃん」

 校庭から聞こえてくる部活の朝練の声に混じって、自分を呼び止めるかすかな声がした。ここまで誰とも会わずにきて

いたので、突然の声に思わず肩がビクっと跳ね上がる。私は顔を強張らせたまま人気のない廊下に視線を巡らせた

が、辺りには誰一人いなかった。

「誰?」

 怪訝に思って何度も見回すけれど、やっぱり周囲に人の気配はない。

 姿なき声に心霊現象かと思い、一瞬顔から血の気が引いた。

「こっちよ、ひかりちゃん」

 再度、呼びかける声。

 冷静になって聞くとその声はとても優しく、恐怖の欠片すらなかった。むしろ、その声にはあたたかさを感じる。

 私は、声の主を探し出そうと更に視線を巡らせた。すると、3階へと続く階段の中腹に、リリアンの制服を着た少女がひ

とり腰掛けていた。

「あ、今日子……さん」

 そこにいたのは、ずっと虫垂炎の手術でお休みしていたクラスメイトの三田今日子さんだった。柔らかい笑みを湛える

と、眼下に立ち尽くしている私に「やっほー」と手を振っていた。

 そうか、今日から復学したんだ。私は声の主がクラスメイトと知ってホッとする一方で、胸のざわめきを感じていた。

「退院されたのね。おめでとう」

「ありがとう」

 今日子さんは、立ち上がると軽い足取りで階段をくだり、私の目の前までやって来た。穏やかな表情。まっすぐと見つ

めてくる瞳は、黒曜石のように黒く煌めいており、どこか魔法がかったような怪しい閃きを湛えていた。こんなにまじまじと

見つめたことなかったけれど、なんて綺麗な瞳なんだろう。まるで天使のようだ。

「そういえば、入院中、お見舞いに行けなくてごめんなさい」

 かけるべき言葉があるように思えたのだけれど、静寂に耐え切れずに私の口からこぼれ出たのは、当たり障りのない

言葉だった。病み上がりで若干顔色が冴えない今日子さんは、ゆっくりと首を横に振った。

「気になさらないで。私たち、お話はしてもそんなに親しかったわけではなかったし」

 少し胸がキュっと締め付けられた。確かにその通りではあったのだが、私は大好きな親友に「あなたとは親しくないの

よ」と言われたようなショックを受けた。こんな気持ちになるのならば、もっと早く仲良くなっておけば良かった。

「それより。ひかりちゃん、目はもう大丈夫なの?」

「は!?」

 出し抜けに今日子さんはそんなことを言ってきた。退院してきたのは今日子さんの方で、心配されるべきはあなたの方

でしょう? というか、私の眼のこと、なんで今日子さんが知っているの? それに"ちゃん"って……。あまりのことに頭

が混乱しそうになった。一瞬、からかわれているのかとも思ったが、まっすぐと見つめてくる今日子さんの瞳は淀みない

清流のようにどこまでも澄んでいて、冗談を言うような雰囲気など微塵にも感じさせない。動揺している私に向かって、今

日子さんは更に続けた。

「リリアンは楽しい?」

 次の瞬間、私は無意識に涙を流していた。依然として状況は飲み込めなかったが、直感的に脳が心が、何が起ってい

るのか理解したようだ。

「も、もしかして……キョウコさん?」

 ボソリと5年間待ち焦がれている人の名を口にする。途端、色褪せていた病室での思い出は極彩色を持って蘇り、今、

目の前にいる少女が、自分の中にずっとあったキョウコさん像と一気に合致した。クラスメイトの今日子さんが私の探し

ていたキョウコさんだった。一緒のクラスになって約半年。何故もっと早く気づかなかったのだろう。そう思うと不思議な話

だけれど、今の私には仕草も喋り方もすべてあの日のキョウコさんに間違いないと自信を持って断言出来た。

 どんな風に奇跡が折り重なって摩訶不思議な再会を果たしたのか、ちょっぴり気にはなったけれど、一女子高生の私

に小難しい話はわかるはずはないし、理屈の解明にも興味はない。私にとっては、どんなご大層な説明よりも、今、目の

前で起こっているたったひとつの奇跡こそが真実ですべてなのだ。

 5年前で止まっていた時計が、音を立ててゆっくり動き始めた気がした。あの日の続きが目の前で繰り広げられてい

る。これは夢? 幻? 何にせよ、今、目の前で起こっていることが消えてしまわなければ何でもかまわなかった。5年

も、永遠にも思えた時間をひとりで過ごしてきたのだ。もう、私だけ残して消えていなくなってしまうことだけはあって欲しく

なかった。

 私は、ダッと駆け出すと、今日子さんに抱きついた。

「急にどうしたの?」

「待ってた。ずっと待ってたんだよ?」

 抱きすがる私の頭の上で、困惑の表情を浮かべているキョウコさんの顔が安易に想像出来た。別に困らせるために

やっているわけではなかったのだけれど、待っていた年月分の想いで歯止めが利かなくなっていた。

「そっか、寂しい思いさせちゃったわね」

 キョウコさんの胸に押し当てていた顔を上げると、そこには微笑む今日子さんの顔があった。それはクラスメイトの三

田今日子さんであって、私の憧れ続けていたキョウコさんでもある。目が合うと、今日子さんは目を細めて私の頬へそっ

と手を添えた。

「待たせちゃってごめんね」

「うん」

 手の甲でゴシゴシと涙を拭うと私はニッと笑みを浮かべた。

 

「ねえ今日子さん、私のお姉さまになってくれるって約束、覚えてる?」

 誰もいない廊下を進み、突き当たりにある非常口から螺旋状の非常階段に出ると、ふたりして階段に腰掛けながら私

は尋ねた。それだけを胸に、私は今日まで突き進んで来たのだ。

「お姉さま? 私たちは同級生よ?」

 顎に人差し指を当てると、今日子さんはちょっと困った顔で首を傾げた。

「かまわないよ。私にとって今日子さんはあの日出会った憧れのお姉さんのままだもの」

「友達じゃだめなの?」

 今日子さんの言葉に心臓が大きく跳ね上がった。あの頃の年の差じゃ逆立ちしたって姉妹にはなれなかった今日子さ

んが、今、同年代の少女として傍らにいるのだ。友達で満足するだなんて出来そうにない。

「やだよ友達だなんて。5年間ずっと待っていたのに、今更友達だなんて……」

 そのために受験を頑張ったんだから。今日子さんと再会出来ると信じて今日まで歩んで来たんだから……。

「もう、わがままなんだから」

 今日子さんは、私の頭を軽くポンポンと叩いた。

「わがままじゃないもん。今日子さんが好きなだけだもん。……駄目?」

 私は、懇願する子供のように上目遣いで訴えながら、今日子さんの腕にすがりついた。すると、並んで座っていた今日

子さんは私の腰に手を回してグッと身体を抱き寄せてくれた。互いに密着したおかげで、スクールコートの上からでもそ

のぬくもりが伝わってきた。

「もう、そんな顔しないの。いつも元気いっぱいなあなたはどこへ行ってしまったの?」

「だって……」

 シュンとしてうつむく私。だって約束したじゃない。そう心の中で繰り返しながら、私は駄々っ子のように伸ばした足を軽

くバタつかせた。

「私が妹にするって言ったのは、いつも元気で前向きなひかりちゃん。そんな泣き虫さんじゃキライになっちゃうわよ?」

「え?」

 今、キライになっちゃうって言った? ということは、今まで好きでいてくれたということ? 少なからず私に興味を持って

いてくれたということ? 私の鼓動がにわかに早まった。期待、不安、もう何が何だかわからない感情が列挙して込み上

げてきた。

「笑顔になるって約束してくれる?」

 そんな混乱気味の私に、今日子さんはそう問いかけた。

「もちろん!」

 私はダっと立ち上がると、滑稽なくらい大げさに頭を縦に振った。

「ふふふ。それでこそ私の大好きなひかりちゃんね。いいわ。お姉さまになってあげる。それを叶えるためにひかりちゃん

は今日まで頑張ってきたんだもんね」

 私の仕草が可笑しかったのか。笑いながら立ち上がると、今日子さんは確かにそう言ってくれた。5年間、ずっと待ち続

けていた言葉を。

「今日子さん!!」

 私は、感激のあまり抱きつこうとしたが、鼻の先に突き出された今日子さんの人差し指に制されてしまった。

「その代わり」

「その代わり?」

 きょとんとしてその指先を見つめている私に今日子さんは続けて言った。

「このことは私とひかりちゃんだけの秘密よ?」

「うん。お姉さま」

 

 ふたりだけの秘密。何だかこそばゆい。聖夜を前に舞い降りてきた奇跡は、言葉じゃ言いあらわせないほど素敵で。

 私は、5年前の自分に戻ったような無邪気さで、今度こそ今日子さんに抱きついた。

 ちょっとだけ風変わりな秘密の姉妹。だけど、ほかのどんな姉妹よりもその絆は深いものだと私は思った。あ、深いも

なにも、絆を深めていくのはこれからかな?

「まずは、ロザリオの授与かしら? 一緒に買いに行く?」

「うん」

 微笑む今日子さんに、私は満面の笑みで頷いた。

 

 寒風が頬を撫でていく。

 5年来の奇跡を祝福するように、今日はホワイトクリスマスになりそうだった。

 

Fin

 

 

 今回は『バラエティギフト』収録の短編『降誕祭の奇跡』に登場したサブキャラ、黒須ひかりさん、三田今日子さんのお話でした。

 ふたりの再会をどんな風に描写すれば自然で素敵な奇跡になるだろうといろいろ考えてみたのですが、予知夢(?)〜運命の糸的な案しか浮かばず。結果、少々あやふやな物語になってしまいました。しかも展開も強引だったし。

 唯一幸せいっぱいなのが救いだったかしら? うん、救いだったと思うことにしてください(オイオイ)。

 

 実は私も眼の手術の経験があるので、ひかりちゃんに感情移入する部分が多々あったりします。眼の手術前って、本当に途方もなく怖くて心細いんですよね。手術の難度に関係なく、失敗すれば光を失うわけですし。そういう意味で私もひかりちゃん以上にビクついていました。ビビったまま手術を受けて、結果 成功しましたけれど、私の元にもキョウコさんが現れてくれていたら、あまつさえ姉妹の約束をしてくれていたら、どんなにも心強かったことか(笑)。

 

 

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